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言葉よりも意味を見つけて、そして言葉に返っていく

言葉
1 人が声に出して言ったり文字に書いて表したりする、意味のある表現。言うこと。
2 音声や文字によって人の感情・思想を伝える表現法。言語。
3 文の構成要素をなす部分。単語。また、語句。
4 言い方。口のきき方。口ぶり。言葉遣い。
5 必ずしも事実でないこと。言葉のあや。

私たちは言葉によってコミュニケーションを取っています。

しかし、同じ言葉を使用しているにも係わらず、誤解や行き違いが絶えず、コミュニケーションによって苦しむことも多くあります。

辞書を引いてみると、言葉とは【表現】であり、【表現法】、更には【必ずしも事実でないこと】とあります。

改めて考えると、普通のことだよ。と思うのですが、その知識を日常に活かし、常に自分が他人の言葉から受け取る印象を中立的に判断できているかと考えると、非常に悩ましく思う問題でもあります。

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言葉は発する人間の価値観や、文化、常識、状況によって、日々意味が変わるものですし、相手によっても変わりうるものです。

辞書には妥当な意味が記載されていますが、その辞書の意味通りに相手が認識しているかもわかりませんし、その時に発した言葉の意味は、常に状況によって微妙に異なる意味を持つからです。

相手と過ごしている時間や、その関係性が担保となって、言葉の意味を自分なりに推測して、相手はこのような意味で言葉を発しているのではないかと言葉の意味を受け取ってはいるものの、自覚的にそのことを検討すると、より意味が通じ合うためのコミュニケーションを目指すには、やや難解なものとなってしまいます。

同じ趣味、仕事、学校、故郷など、何らかの共通点があると仲良くなれるのは、その共通性からくるものだけではなく、コミュニケーションの言葉の前提に同質性があると、お互いに認め合うことからくる信頼感があるとも言えます。

そのように考えると、コミュニケーションは非常に難しいものであるのか、というと、そうでもありません。同じ文化圏でいる場合は、プライベート圏であれば同質性が働くものの、公共圏であれば、ある程度の社交辞令、常識的な判断が共通のものとなり、それはそれなりのルール下において、お互いのコミュニケーションが働くからです。

逆に、まったく異なる文化圏、例えば外国に飛び込む場合は、自分が異なる文化圏にいることを自覚し、自分の常識が通用しないことも自他ともに認めることになるので、相手の言葉をより理解しようと傾聴する素地ができていることから、それはそれなりに溶け込むことができるようになります。

つまり、人間はある程度のコミュニケーションを言葉で取れるようにできているということです。

にも拘わらず、言葉によるコミュニケーションの齟齬が起きてしまうのは、何故でしょうか。

これも、条件によっていくつかの要素があるかと思いますが、ここでは【意味】を決めてかかってしまうことを採り上げたいと思います。

これは、当たり前の話ではあるのですが、相手が発した言葉の意味と、自分が相手が発した言葉から受け取った意味に差違があるものの、相手の言葉の意味が自分のものと離れている可能性を小さく見積もって、決めつけてしまうということです。

言葉の辞書にある意味から考えても、そもそも人が発した言葉自体がお互いのルールの間で交わすことができるものの、事実を指しているものではないのだから、その誤差自体は常に発生するものではあるのですが、ここではその誤差について、両者が常に意識をしていて、その時々で対話によって意味の際を埋めていこうと努めていこうとしているのか。

意識的であったとしても、無意識下でも、そのような力が働いていたら問題は起きにくくなるのですが、問題が発生する場合は、総じてその力が働いていない時が多いように思います。

利害関係があったり、その利害関係が複雑に、そして第三者が多いものなどを含めていくと、その言葉の前提を作り上げることが非常に困難になる場合(企業間、国家間、宗教や文化間)には、その問題が矮小化してしまうような、より広く、重要度が高い、或いは劇的な要素(地球規模の災害や環境問題、例えば地球外生命体による侵攻)があれば、一気に乗り越えることも可能かもしれませんが、その問題が無くなってしまうと、矮小化された火種はまた大きくなってしまうかもしれません。

じゃあ、解決できないのかということ、そういうことでもありません。正確に言うと、完璧な解決を一気に望むのではなく、お互いの言葉の前提になっているあらゆるものに差違があることを認め合い、自分が信じているものが必ずしも全面的に正しいという前提で話をしないということを念頭に置くことができれば、言葉の意味も近しくなり、共通認識を作り易くなっていきます。

但し、これは利害関係が大きすぎるものでは、感情的に乗り越えることも困難な場合があるため、正しい方法だと言えない難しさもあります。

ただ、自分と相手だけの利害関係であると仮定し、そして、今、相手とコミュニケーションの問題となっている何かが、自分にとって歩み寄ることができるものであれば、たとえ自分の主張が正しいものであると信じていたとしても、相手の主張も正しいかもしれないという、或いは、相手の主張はどのような前提で、どのような意味を持つものかについて検討してみるのは良いだろうと思います。

こうだろう!!と決めつけて、相手の言葉の意味を否定し、押し付けることは、簡単な方法の一つではありますが、そもそも言葉自体には、お互いのコミュニケーションの意味を100%同じものとして交わすことができないという前提から考えると、恐らくは良い手段ではないでしょう。

逆に、相手の言葉が自分のことをわかってくれていないことが前提であった場合でも、相手の認識を変えさせるために、その違いについて指摘をして、変えさせようと働きかけても、その状況に至った関係性を鑑みると(濃密なものであっても、薄いものであっても)、相手のその認識を変えることは非常に難しいでしょう。

できることとしては、コミュニケーションに絶対的な意味は無いということと、自分の前提と相手の前提をお互いに知り合うことが重要で、相手自体を変えようと働きかけず、むしろその言葉のベクトルを自分に向けて、自分が思っている正しさが「本当に絶対的に正しいものなのだろうか?」と自問自答をして、自分の立場や、あり方について考えなおし続ける事で、自分の行動を変えていくことです。

月並みな言葉になってしまいますが、結局、自分が変えられるのは【自分】だけであって、相手が変わったという結果は、自分が変わった【結果】に過ぎないということです。

以前記事にした【真面目であることのすばらしさを伝えたい】にも記載しましたが、

言葉のベクトルを自分に向けることが必要なのであり、他者の言葉と自分の言葉を混合しないことが重要で、お互いの違いを理解しながら歩み寄り続けることで、なんとか少しずつ近づいていくようなものであることを頭の隅っこに入れておく、ということが欠かせない要素です。

そう考えると、ツイッターやSNSで炎上したり、罵倒し合ったりする理由も、自ずとわかってくるような気がします。

匿名性が強かったり、お互いの共通項を見出せないなど、情報が圧倒的に足りないということだけではなく、利害関係が強く出たり、お互いに譲れないものがあるという中で、自分なりの事実だけを押し付け合うという構図になってしまうことで、その言葉の中間らしきものを見出そうという隙間が限りなく小さくなってしまうからです。

自分も肥大化させず、相手も肥大化させない。

そのようなことを念頭において、たくさんの方たちとお互いに豊かになれるようなコミュニケーションを取れる関係性を築き上げたいと思っています。

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